改めまして。
仲宗根糀家の山川剛司と申します。
この度、前任の代表取締役である仲宗根悦子さんからバトンを受け継ぎ
代表取締役にご指名いただき正式に就任いたしました。
これまでイベント等でお会いしたお客様も多々いらっしゃると思いますが、
改めて私の自己紹介と仲宗根糀家を継ぐまでの経緯や想いを綴らせていただきます。
【自己紹介】
改めて、山川剛司(つよし)と申します。
奈良県出身の33歳です。(平成4年生まれ)
奥さんは久米島の出身で、私自身沖縄が大好きだったこともあり
4年ほど前に移住をしてきました。
昔から食べることが大好きで、大学生の時にインターンで働いた
オーガニック食品の会社での経験がキャリアのスタートになります。
大学在学中に1年間休学をして、カナダのバンクーバーに留学に行きました。
余談ですが、このバンクーバーでの留学中に沖縄出身の奥さんと出会い、後々結婚することになります。
奈良県民の沖縄県民がどうして出会ったのか、よく聞かれますが
「海外で出会いました」といつもかっこつけて答えてます!笑
留学中の約半年は、地元のオーガニック食品を扱う”JIVA ORGANICS”という会社で
インターンとして、広報活動や事務作業のお手伝い、地元のスーパーに営業で同行させていただくなど
広く浅くではありますが食品業会に片足を踏み入れました。
この会社の社長がインドの方で、インド訛りがものすごく強く
そもそも私が英語も中途半端な状態の中、意思疎通をするのに苦労したことを思い出します。
(ちなみに今では当時勉強した英語はすっ飛んで全く話せません。笑)
食という、生きるうえで欠かせない要素に関わることが
どれほど大切で貴重な仕事なのかをインターン中に感じることになりました。
当時はフェイスブックが主流で、
会社の商品を使ってから、もともとあった不調が改善した喜びなどを
コメントでいただいた時などには、食で1人の生活を、人生を豊かにすることができるんだと
学生ながら感じた記憶があります。
このインターンでの経験が強烈にあり、卒業後は食品業界に行くことを決めました。
大学卒業後は、清涼飲料などを扱う企業で営業として就職します。
赴任したのは関東エリアで、当時は栃木県、長野県、新潟県などを担当していました。
就職してから2年ほど経ってから奥さんと結婚しました。
奥さんとお付き合いしていた頃、遠距離期間中によく沖縄に行っていました。
仕事で疲れた時や心が消耗した時、沖縄の綺麗な海や、優しい沖縄の人たちに触れ
エネルギーをいただいて、また関東に戻る生活が続いていました。
結婚を機に奥さんは沖縄から関東に移り住んでくれていましたが、
当時から「いつか沖縄に住みたいね」と常々話していたことを覚えています。
自分達が好きな場所で、好きな人たちがいるところで生活がしたい
そんな想いが強くなり、沖縄に移住をすることが決まりました。
このタイミングで会社を退職し、移住を機に転職をすることになります。
この時の決断は今でも間違ってなかったと自信をもって言えますし、
あの時夫婦で早めに移住を決断できてよかったと心から思います。
【仲宗根糀家との出会い】
仲宗根糀家との出会いは沖縄に移住して半年ほど経過したタイミングでした。
沖縄に移住してからは、経営を学びたいという思いから日経の経営コンサルティング会社に転職しました。
この時、営業した訪問先として仲宗根糀家と初めて出会うことになります。
当時勤めていた会社では朝早くから日をまたぐことも多く、土日も関係なく働いていました。
そんな働き方を続けていると体調にも異変が出てきていました。
不規則な生活が続き、特に腸内環境が荒れに荒れていきました。
便通は悪くなり、そこから肌はボロボロになり、サプリメントなども応急処置的に使っていましたが
根本的な改善には繋がりませんでした。
そんな時、営業で仲宗根糀家に偶然訪問しました。
特に仕事の話をするでもなく、雑談をしていて、腸の調子が良くないということを話すと
騙されたと思って甘糀(甘酒)を続けてみなさいとアドバイスをもらいました。
正直、これまで甘酒を習慣的に飲んだことはなく
お正月でたまに飲む程度の記憶しかなく、しかもあまり美味しいイメージはありませんでした。
半信半疑で買って帰り、飲んでみたところ、まず驚いたのはその美味しさと飲みやすさでした。
「自分が知っている甘酒とは違う!」という驚きとともに、これなら続けられそうだと思いました。
そこから3週間ほど毎日欠かさず飲むと、これまで悩んでいた便通が改善し
腸内環境が改善されたことで肌のトラブルも少しづつ改善に向かうようになりました。
人は体調が悪くなって初めて健康であることの大切さを痛感すると言いますが、
私もまさしくこの時に腸内環境の大切さを身に染みて感じるようになりました。
それと同時に、甘酒や発酵食品への興味が芽生えていきました。
それから、個人的に甘酒を購入したり、夫婦で料理教室(知っとこ会)に参加したり、
さらに酵素について論文を調べて勝手に勉強したりして、糀の沼にどんどんひきづり込まれていきました。
そこから糀を使い続け、気づけば仲宗根糀家のヘビーユーザーになり
仲宗根糀家がなくてはならない存在になっていました。
そこから更に1-2年ほど経った時、講習会に参加した後で現会長である仲宗根悦子さんと話している時に
「私も年齢的にそろそろ後継ぎを探したいが、私の子供達は継ぐ気はないみたい。どうしようか考えている」
ということを本人から直接聞きました。
その話を聞いて、危機感のようなものを強く感じたことを覚えています。
これだけ素晴らしい商品を、後継者がいないという理由で途絶えさせるわけにはいかない。
(何より、自分が毎日飲めなくなる、、という焦りも正直ありました、、笑)
しかも、聞くと沖縄で黄麹を最初に作り始め、沖縄で黄麹製造を行う数少ない会社とのこと。
(創業当初は仲宗根糀家以外で黄麹を製造販売している会社はなかったと聞いています)
仲宗根糀家がなくなると、沖縄から黄麹の文化がなくなってしまうのでは
という危機感も同時に感じていました。
自分にできるかはわからないけれども、
この商品は守っていかなくてはいけないという想いだけで、
「私に継がせてください」と伝えました。
ただ、この決断に至るには数ヶ月の時間がかかっています。
本当に今の仕事を辞めてもいいのか?
辞めて自分達の生活を続けていくことができるのか?
未経験の糀製造という業界でやっていけるのか?
県外出身の私が継ぐことで地元のお客様に愛してもらえるのか?
色んな葛藤や迷いがあったのは正直なところです。
ただ、最終的にはここで手を挙げないと近い将来、この会社がなくなってしまう
それだけは避けたいという強い想いに突き動かされ
事業の承継を前提に先ずは、会社のこと、糀のことをしっかりと学ぶために
社員として働き始めることになります。
この決断の背中を押してくれ、そしていつも側で支えてくれている奥さんには本当に感謝しかありません。いつも本当にありがとう。
【仲宗根糀家でやってきたこと】
長くなってしまいましたが、ここまでが仲宗根糀家との出会いであり
継ぐことが決まるまでの経緯です。
ここからは、私が事業を承継するまでに仲宗根糀家でやってきたことです。
入社する時から、会社を継ぐことを前提に入ってきているので
入社当初から経営全般にかかわることを網羅的に任せていただきました。
入社してすぐは、製造のことなど全くわかっていなかったので
午前中は工場に入って製造の流れを学び、
午後からはそれ以外の仕事をするという形が多かったです。
仲宗根糀家は家族経営の会社です。
現在代表含め全体で9名が在籍していますが、そのうち4名は仲宗根家の親族です。
家族だからこその阿吽の呼吸のようなものがあり、
そこに将来の代表候補として突然外部から知らない私が入ってきたので、
最初は社員の皆さんも戸惑ったことと思います。
経営全般のことを見させてもらっていたので、
会社の内部事情も把握することができました。
家族経営だからなんとか今までやってこれていたものの、
早急に改善をしないといけない状況にあることは明白でした。
私のミッションはなるべく早い段階で会社を立て直し、
持続可能な状態に持っていくこと。
これまで10年以上、やり方を変えずに事業を続けていた中で
変化が必要になるタイミングでもありました。
商品の品質を落とさずに、仕入れを見直し、販売先を増やし、工場の稼働状況を改善し、
商品を知っていただくための認知を広げ、お客様に求めらている商品を作り、
会社として適正な利益が確保できるように徐々に変化していきました。
会社を運営していくうえで必ず儲けは必要になります。
この儲けがあるからこそ、そこで働く従業員をより幸せにし、
仲宗根糀家の商品を必要とするお客様に届け続けることができます。
この変化に対応し、これまでついてきて下さり、支えてくださった、
仲宗根糀家のスタッフの皆様には心から感謝しています。
最近では嬉しいことに、お客様から
「最近、仲宗根糀家をよく見るようになった」
「販売先が増えたことで今までよりも買いやすくなって嬉しい」
「今まで仲宗根糀家を知らなかったけど、初めてこんな良い商品があると知った」
というお声を頂戴することが増えてきました。
そういったお声を聞くと、これまでやってきたことは間違いではなかったのかもしれないと思います。
昨年からは食育や学校給食への導入を精力的に行なってきました。
未来の宝である子供達の食の中に、日本の和食の根幹とも言える糀を定着させたい。
そんな考えから、最初は沖縄の保育園を全てリストアップし、
1件1件ファックスを送り無料で講座を受けませんか?
とアプローチしていきました。
興味を持ってくださった保育園から依頼を受け、仲宗根会長に訪問していただき
講座を行う。そんなことを続けていくうちに、噂を聞いた他の保育園からも依頼を受け、
今では毎月のように出張講座を行うまでになりました。
いくつかの保育園では園児に甘酒を習慣的に提供してくださっています。
学校給食においては、給食に採用されるための前提条件である
工場の状態をあらためて整え、給食の提供に必要とされる保健所の適正検査をしっかりクリアできるようにしました。
その後、いつもお世話になっている方が小学校の栄養士さんを繋いでくださりました。
その栄養士さんは、とても想いのある先生で先ずはうちで糀を取り入れてみようと言ってくださり、
その1校から最初の導入が始まりました。
その後は、知り合いの紹介などを頼りに、他の栄養士さんをあたり
1件1件説明に回りながら糀について説明し紹介をさせていただきました。
かなり地道な営業ではありましたが、
商品の良さを知っていただき、今では県内約10ヶ所ほどの給食センターで採用いただくことができました。
商品の良さを伝えることができれば、絶対に気に入ってもらえる。
私は仲宗根糀家の商品に絶対の自信を持っています。
それは、何よりも自分が不調で悩んでいた時に、仲宗根糀家の商品で救われた当事者だから。
この良さを伝え、まだ見ぬ不調を抱えたお客様を糀で支えることができると信じています。
仲宗根糀家に入社してからの約2年半ほどは、
脇目も振らずどうすれば会社をもっとよくできるか、
従業員さんの給料を増やすことができるか、
お客様に喜ばれる商品が作れるかを考え走ってきました。
本当にこの時間は今までの人生の中で最も濃い2年だったと言っても過言ではありません。
これほどまでにやり甲斐のある仕事に出会えたこと、
そして私が自信を持って伝え続けることができる素晴らしい商品を作ってくださった
仲宗根会長には感謝しかありません。
【私の想い】
沖縄をもう一度、健康寿命No1の県にしたい。
これが私だけでなく、仲宗根糀家の想いです。
どれだけ長生きしたとしても、健康でなくてはなりません。
健康には食が密接に関係しています。
この食を守り、未来につなげていくのが沖縄で糀を製造する私たちの役割だと思っています。
時代の変化とともに様々なものが、その時代に合わせて変化を求められます。
糀もその時代のライフスタイルに合わせた提案が必要なのだと思います。
より手軽に、より健康に糀を身近な存在に感じていただけるような商品を今後も開発していきたいと思っています。
変わらずに残していかなくてはいけない大切なことは、丁寧に守り続け
時代に合わせて柔軟に変えていくべきところは変化させていく。
そんな姿勢を守っていきたいと思います。
【今後について】
役職は変わりますが、これまでのやることと大きく変わることはありません。
仲宗根会長には会社の顔として、これまで通り講師として表で大活躍いただきたいと思っています。
会長が望むのであれば何歳になっても教室で生徒さんに教えてもらいたいと話しています。
私はこの会社を成長させ、仲宗根糀家に関わる従業員、お客様が物心両面から幸せになっていただける一員でありたいと思っています。
そんな大層な想いはある一方で、まだまだ経営者としては未熟な身です。
そして、沖縄を健康寿命No1にするという目標はまだまだ高い壁がたくさんあります。
お客様・関係者の皆様から激励や応援を背に
日々精進し目標に向かい一歩づつ歩みを続けて参ります。
代表交代の発表の後、常連のお客様、お取引先様から応援・激励のメッセージを沢山頂戴しました。
仲宗根糀家は本当に沢山の方々から愛されているということを改めて実感いたしました。
今後とも、仲宗根糀家を末永くご愛顧いただけますと幸いです。
改めてこれからも仲宗根糀家をどうぞよろしくお願いいたします。